ブルサスーパーガイド(自分用)
先日、日帰りでブルサを訪れた。忘れてしまわないように、ブルサの初期オスマン朝建築について書いておく。
記事のタイトルはスーパーガイドとしたが、自分のためのスーパーガイドだ。ただの趣味であり、不正確な部分が多々あると思うのであまり信用しないでいただきたい。またそのような部分を見つけた場合、宜しければご指摘願いたい。
初めに訪れたのは、温泉地で有名なチェキルゲ(Çekirge)にあるムラト1世のジャーミー。1365-66年にギリシア人によって建てられた。正式名称は1.Murat Hüdavendigar Camiiという。Hüdavendigarとはムラト1世の別名であり、支配者という意味を持つ。建物全体は撮り忘れてしまった。
ブルサ初期オスマン朝の建築物は、土・石・木の三種類から構成されている。土からは、土壁や瓦、煉瓦、タイルなどが作られるようだ。最近ようやく気がついたが、材質が何であるかに着目すると建物を見る楽しみが増える。
この建物の茶色はおそらく煉瓦で、灰色の部分は石でできているのだが、自分は石の種類については大理石か否かぐらいしかわからない。それくらいの理解度でも、建築の過程がなんとなく想像できるので楽しくなれる。
ブルサの建築で見るべきは、このアーチ上のkemer aynasıと呼ばれる部分だという。茶と灰の二色で構成される幾何学模様に注目したい。
それからミナレットについて。何気なく立っているこのミナレット(逆光になってしまったが)、拡大してみるとまた面白い。
表面は煉瓦で装飾されており、水平方向のみならず、ジグザグであったり丸を描いていたり、決して単調ではない。
建物内部はブルサのジャーミーに特有の逆T型だ。入り口から入ってすぐにシャドゥルヴァンşadırvanが位置していて、左右にイーワーンeyvan(窪みのような空間)がついている。このタイプは、コンヤに見られるような屋内マドラサが発展した型だろうと考えられている。
その後作られる逆T型プランのユルドゥルム・ジャーミーやイェシル・ジャーミーとは異なり、入り口から遠いミフラーブ側の空間に円ドームは採用されていない。
このシャドゥルヴァンについては初めて見た時から疑問を拭えなかったのだが、イーワーンのあるマドラサが発展したものだと言われて納得した。元々ペルシアでは屋根のないイーワーン付きマドラサが流行していたが、そこからアナトリアに入って屋根がつき(降雨量が関係しているとされる)、屋内型となった。このシャドゥルヴァンのあるホール部分は、本来は屋根のない中庭部分ということになる。そのため、このシャドゥルヴァンは、屋根のない頃の中庭の名残ということになる。
入り口付近、ホール側のドーム中央(シャドゥルヴァンの真上)には彩光窓が取り付けられている。完全な円ではなく、十六角形のドームのようだ。正方形の部屋にドーム天井を架ける方法は幾つか存在し、それによって見た目も変わるらしいが、自分には難しすぎるので理解を諦めた。
見ることは叶わなかったが、このジャーミーはマドラサと一体となっており、二階部分にはマドラサとして18もの部屋が存在しているという。
この石と煉瓦が組み合わされた技法をアルマシュクalmaşık(メッシュ、網目)と呼ぶ。子供の傍に佇むチェシメを見ると、同じ大きさに切られた石(kesme taş)の列に、煉瓦によって2本の線が引かれている。建物によってこの組み合わせが変化するので、これもブルサで建築物を見るポイントの一つかもしれない。
例えばジャーミー近くの壁は、切石(kesme taş)に煉瓦の横線、縦線がそれぞれ一本ずつ組み込まれている。
折角チェキルゲに来たので温泉を見ようと近くのEski kaplıcaに寄ったところ、屋根に瓦kiremitが使われていて感激した。こちらもムラト1世時代にビザンツの奴隷によって設計されたものだ。
先ほどのジャーミーと異なり、建材として不揃いな瓦礫が使用されている。moloz taşと言うようだ。先ほどのムラト1世ジャーミーと同様、屋根のすぐ下にアーチ状の飾りがある。互い違いに突き出る三角の庇部分が目立つ。
次はユルドゥルム・ジャーミーを訪れた。1390-95年の間に、バヤズィット1世の命により建設されたジャーミーだ。30年ほど前に建てられたムラト1世のジャーミーとは異なり、切石造りとなっている。入り口のアーチは「ブルサアーチ」と呼ばれるものだ。
入り口向かって右側のムカルナスには、ターコイズブルーのタイルが嵌め込まれている。こうした模様は建築に携わった石工を示しており、これはオグズ族24氏族のうちの1つ、バヤト氏族(Bayat boyu)のものとされている。
こちらのジャーミーも逆T型だ。先ほどのムラト1世のジャーミーと異なるのは、入口側のホールからミフラーブ側へと続く区画がブルサアーチで仕切られている点だろう。逆T型ジャーミーの多くは、元々ザーウィエ(デルヴィーシュの礼拝・修行施設)やタブハーネ(特にデルヴィーシュの宿泊施設)として使用されていた。おそらく先ほど紹介したムラト1世のジャーミーも同様だろう。
ブルサ市街の中央に位置するウル・ジャーミーもバヤズィット1世の命によるものだが、こちらのユルドゥルム・ジャーミーはかなり町外れにある印象を受ける。これは、元々デルヴィーシュのためのザーウィエという機能を持っていたことに由来するという。ウル・ジャーミーは一般信徒の礼拝の為のジャーミーであり、確かにプランも複数ドーム型で、逆T型ではない。
ブルサアーチの装飾も凝っている。
外側の窓枠にはアラビア文字が彫られている。こうしたものを読んでいくのは今後の課題。
中には以下のように、抽象化されたアラビア文字のようなものも存在する。
おそらくمحمد(ムハンマド)と書かれている(先輩の意見を参考にした)。
こちらも多分محمد。自信はない。
とにかく建築物に書かれたものを読むのに手書きの文字を読めないと何も始まらないので今後の課題としたい。
力尽きたので今回はこの辺りで。
ラーミ図書館:イスタンブルで最も巨大な図書館
ラーミ図書館:元兵舎を使用した、イスタンブルで最も巨大な図書館
2023年1月13日、イスタンブル最大の図書館となるラーミ図書館が開館した。オープニングイベントには現職のエルドアン大統領が参加し、この図書館について「図書館としてのみならず、文化拠点となるよう計画された」ものだとコメントを残した。
広報によると、この図書館は51000㎡の景観エリアを持ち、建物内面積は36000㎡に及ぶという(東京ドームは46755㎡)。とにかく広いということを強調しているようだ。250万冊の図書を収蔵でき、4200人が着席可能。日本の公立図書館の平均蔵書数は12万冊とのことなので、ラーミ図書館は日本の公立図書館のおよそ20軒分の蔵書数を誇ると言えるかもしれない。なお日本の国立国会図書館と比較しても、敷地面積は30000㎡とのことでラーミ図書館の方に軍配が上がるようだ(国立国会図書館の書庫収蔵能力は1200万冊とのことだが、日本国内で出版された出版物が全て保存される場所なので当然だろう)。個人的には24時間365日営業という点が最大の目玉だ。
ということで、私は開館したてのラーミ図書館へと向かった。イスタンブル中心部から少し離れた場所にあるものの、アクセスは良好。T4メトロのラーミ駅を降りると、目前に巨大な建物が立ちはだかった。これがラーミ図書館のようだ。
この巨大な建物は新しく建設されたわけではなく、オスマン朝時代の兵舎を改装して作られたものだ。
ラーミ兵舎はスルタン・ムスタファ3世(在位1757-74)の時代に竣工し、その後マフムト2世(在位1818-39)時代に改築が行われた。イェニチェリの兵舎が木材で建設されていた中、石造りでこのような近代的な兵舎を作るのは新しい試みであったようだ。その後、国内には似たような構造の兵舎が多く作られ、例えばイスタンブルにはセリミエ兵舎(1828年竣工)やダヴドパシャ兵舎(1826年竣工)(現ユルドゥズ工科大学キャンパス)が現存している。
ラーミ兵舎は、オスマン朝が滅亡してトルコ共和国となってからも、1960年代まで軍によって使用されていた。しかし40-50年代にかけてこの地域に押し寄せたバルカン半島からの移住者の波と、それに伴った無計画な都市化の中で、この建物はほとんど放置されていくことになった。軍の手を離れた後は乾物問屋として使われ、その後は廃墟同然となっていたようだ。
建物の大きさに圧倒されつつも図書館の方へ歩いて行くと、複合施設の完成予定図が張り出されていた。兵舎は左上。茶色い屋根で四角く囲ったような形をしている。
(周辺施設は未だ工事中であるものの、カフェ、バザール、グラウンド、ドッグランに子供用の公園と、盛りだくさんの内容となっている。)
(積み上げられた石の壁には赤煉瓦のアクセントが映える。)
(長い。)
それなりに歩き、ようやくメインエントランスへと到達した。駅から見えた部分のちょうど裏側に当たるようだ。入口左手には建国の父・アタテュルクが、そして右手にはエルドアン大統領の写真が掲げられている。
入って左手の廊下には、現代アーティストによる作品がいくつか展示されている。目についた部屋を覗いてみると、おそらく売店(ミュージアムショップと言うべきか)のようだった。まだ営業はしていないようだ。ガラス戸の外から見た限りではあるが、なんだか期待できそうな見た目をしている。
廊下に沿って椅子が備え付けられている。
更に進んでいくと、国内最大規模となるらしいアタテュルク研究専門図書室があった。廊下にも数多くのアタテュルクの写真が展示されている。
他にも、シアターや会議室、子供用図書室、個人用の勉強部屋といったようなものまで充実しているようだ。中でも子供用の遊び場は家族連れで大賑わい、廊下には人だかりができていた。
しかしながらオープンしたばかりの1/15現在、開放されている部屋は少なく、貸し出しサービスは行なわれていない。蔵書もまだ整理しきれていないようだ。本棚をよく見てみると、ワンピースの47巻と進撃の巨人の8巻が紛れていた。
建物はまだ終わらない。廊下を進んでいくと、言語に関する興味深い展示があった。トルコ語とその周辺諸語との関係や、周辺諸語と共通する語彙が展示されている。
例えばこちらの画像左手、展示の関係でうまく写真に収まらなかったが、pazar(バザール、市場)というトルコ語の語彙について、中国語、ウルドゥー語、アラビア語、ロシア語、アルメニア語、ハンガリー語、ルーマニア語、チェコ語、ブルガリア語、ボスニア語、セルビア語、アルバニア語、マケドニア語、ギリシア語、ドイツ語、フランス語、英語に同様の語彙がある、といった趣旨の展示がされている。詳細な説明がないので展示の意図を汲みかねるが、単純に語彙の広まりを示すためであれば是非日本語の「バザール」も加えて欲しいものだ(因みにpazarはペルシア語から入ってきた語彙なので、これではトルコ語由来であると誤解を招きそうな展示ではある)。
入り口からちょうど反対側に来たところで、少し狭まった入り口が見えた。入ってみると、少し蒸し暑い。中はオスマン朝時代の地図やキターベなどの展示コーナーだったが、ふと天井を見上げると丸い穴からポコポコと光が差し込んでいる。ここはどうやらハマムを改装した場所らしい。蒸し暑いのにも納得がいった。
兵舎の模型でハマムが確認できた。直線的な兵舎の屋根が途切れ、ぽこりとハマムが組み込まれている。
幾つか展示物があったが、そのうちの一つに「ラーミ」という名前の由来を解説しているものがあった。曰く、この地区にあったラーミ・メフメト・パシャ(1655-1708)の農場から名付けられたものだとのこと。ラーミ・メフメト・パシャはムスタファ2世の時代(1695-1703)に大法官の長を務め、後に大宰相になった人物だ。
建物をようやく半周回り切ったものの、もう半周は残念ながらまだ開いていないようだった。建物に囲まれた中庭に出ると、そこは既に多くの人々の憩いの場となっていた。
最後に、別棟の展示場を見た。コンスタンティノープル(イスタンブル)を征服したメフメト2世の、写本コレクションが展示されている。
詳しくは実際に訪れて見ていただきたいが、様々な学問領域におけるアラビア語・ペルシア語の写本が揃っている。論理学、哲学、形而上学、医学(外科・精神科)、天文学、詩学、タサウウフ、イブン・スィーナーによる哲学書、ガザーリー『哲学者の自己矛盾』、イランの民族叙事詩であるフェルドゥースィー『シャー・ナーメ』…。滅多に見られるものではない。
イスタンブルに来た際には、ぜひこの図書館を訪問先の選択肢に入れてみてほしい。
チュニジアとイスラーム備忘録
先日、1週間ほどチュニジアに滞在した。首都チュニスからスース(旧市街が世界遺産)へ、スースからドゥーズのサハラ砂漠へ、そこからマトマタ(スターウォーズのロケ地として有名)を経由してジェルバ島(ユダヤ人とイバード派が居住していた)へと向かった。途中アグラブ朝首都であったケロアンに滞在するつもりだったが、ケロアン行きの夜行バスが運行していなかったために諦めざるを得なかったことが心残りだ。
主にイスラームに関連したものについて、備忘録を残しておきたい。
事前に幾つかチュニジアのスーフィズムについての動画を見たが、以下のものが参考になった。聖者廟やザーウィヤ(修行場)に注目しながらの街歩きができるだろう。イブン・アラビーがチュニジアを訪れたというのも興味深い話。
The Way of the Saints: Tunisia's Sufi Tradition - YouTube
以下の動画はチュニジアの音楽療法「スタンベリ」の儀式について。スタンベリという言葉は音楽ジャンルも指すという。滞在中関連するものを見つけることは叶わなかったが、参考までに。
Stambeli, dernière danse des esprits I Pèlerinage (1/3) - YouTube
チュニスでまず気になったのは、角塔のミナレットだ。チュニジアをはじめとした北アフリカでは、初期イスラーム時代に普及したこの様式が現在も使用されている。
また、チュニスといえばイブン・ハルドゥーン出生の地。旧市街の入り口には像が立っている。彼の生家とされる場所には案内が書かれていた。
チュニスにごく近い町で、シディ・ブ・サイド( سيدي بو سعيد )というところがある。この名は、Abu Said al-Bajiという12-13世紀に生きたワリーに由来する。廟があったそうだが、2013年にサラフィストに破壊されてしまったらしい(現在どうなっているのかは確かめられなかった)。Abu Said al-Bajiは、モロッコ出身でシャーズィリー教団の創立者であるAbu al-Hasan al-Shadhiliの師のうちの一人であると伝えられている。
このシディ・ブ・サイド、ボーヴォワールやフーコーが訪れたことで有名で、その景観の良さから観光客の絶えない場所だ。町の中心には海を望む有名なカフェがあり、ちょうど同じ建物の下の階には、ザーウィヤと呼ばれるスーフィーの修行場がある。
カフェへと続く入り口は、修行者のためのザーウィヤへの入り口であった。また、このカフェは修行(ハドラ)後のスーフィーらの集いに使用され、彼らはコーヒーを嗜んだという。
カフェの入り口とは別の場所には小さな扉があり、側には زاوية سيدي عزيزي(ザーウィヤ・シディ・アズィーズィ)と書かれている。
またチュニスには、先ほど言及したシャーズィリー教団の創立者、Abu al-Hasan al-Shadhiliが開いたザーウィヤに由来する廟が残っており、今でもハドラが行われている。この場所の名前はBelhassan(Abu al-Hasanを指す)で、写真の丘の上に聳える建物が廟となる。彼はこの丘の洞窟で修行を行っていたという。
こうした様式の廟は、tourbaやturbeh(トルコ語:türbe)と呼ばれる。その名が示す通り、チュニジアではオスマン朝に併合されていた時期(1574-1705)に建てられ始めた。それまでは町の城壁付近に埋めるのが通例だったらしい。
オスマン朝から独立したフサイン朝で、廟は独自の発展を迎えた。チュニスの旧市街にはTourbet el Beyという廟があり、そこではオスマン朝との廟の違いを楽しむことができる。例えば先ほどのBelhassanでもそうであったように、光沢を持つ緑色のタイルで覆われたドームはオスマン朝と大きく異なる点だ。また、オスマン朝の廟は通常八角形であるが、こちらは四角い部屋を持つ。
ドームの装飾も趣深い。
よく見ると模様の一つ一つが全て掘られている。怖い
そして何より、タイル装飾がオスマン朝のものとは全く異なる。オスマン朝のタイルは基本的に青、そして差し色として赤が使用されるが、チュニジアでは黄色と緑が目立つ。模様の種類が異なる。そして何より、(僅かながら)生き物が描かれている!
こちらはタイルではないものの、またもや鳥の姿が。
話は尽きないので、最後にジェルバ島について触れて終わりとしたい。ジェルバ島には古くからユダヤ人が暮らしており、現在もチュニジア最大のユダヤ人コミュニティが存在する。最古と言われるシナゴーグを訪れるため、Er Riadhという地区には多くのユダヤ教徒が押し寄せていた。
また、島にはイバード派のコミュニティも存続し、イバード派によって建てられたと言われる幾つかのモスクは訪問可能だ。ジェルバ島やオマーン、アルジェリアのムザブ、リビアのナフサなどに住まうイバード派は、そのモスクの建築に共通した独特の様式を持つという。これら四箇所の建築を調査したBenkariの論文*1によると、例外はあるものの基本的には以下のような特徴がある。
・質素、最低限の装飾:イバード派は、清教徒的で改革を拒否する傾向にある。こうした思想的背景によるものだという見解が多数。
・ミナレット無し(軍事的に必要となる場合は除く):イバード派の法学書によると、ミナレットはモスクを構成する本質的な要素だと見做されていない。理由がない限り作られることが許されていなかった。
・人体の大きさに沿ったプロポーション:「神は人を最高の形でお造りになった」という思想を反映したものだと言う者もいるが、イバード派のモスク以外にもマグリブの建築には共通して見られる特徴である。そのため、ベルベル人によって地元の材料を使って建築されたためであるとも言われている。
・断片化しているモスクの空間。野外礼拝室として機能する中庭。
・複数個のミフラーブ:キブラ壁の破壊が禁止されているため、増築や改築に伴ってミフラーブが増加する場合がある。
・ミンバル無し(コミュニティの状況による):イマームが選出されないコミュニティにはミンバルがない。
女性は女性用の礼拝室しか入ることができないため、内部を撮影することはできなかった。それでも、いくつかの特徴は把握することができるだろう。
ジェルバ島には、軍事的理由ゆえに例外的にミナレットが設けられているモスクが存在する。
ジェルバ島の中心地であるフーム・スークに近いモスク。確かにチュニジアの他のモスクと比べると「断片的」と言えるプランとなっている。
こちらは野外礼拝所として開放されている中庭。
シリア料理の忘備録
シリア人の友人の家でシリア料理を頂戴した。忘れないうちにこちらに書き留めておこうと思う。
まずはクッべ كبّة 。団子とかボールとかいう意味を持つ。かの有名なケバブと同じ語根だ( كب )。中には挽肉とナッツ類(松の実やアーモンド等)が入っている。確かめてはいないが、生地の中にも挽肉が使われているらしい。
一つ目と二つ目でそれぞれ違う形状を持つが、二つとも同じ「クッべ」だ。シリアではクッべという料理が様々な形状で作られるらしい。トルコにもiçli köfte(イチリ キョフテ)と呼ばれる似た料理があるが、紡錘形以外の形状を見たことがない。
続いて、こちらは فريكة と呼ばれる小麦を使った料理。音としてはファリーカの方が正確な気がするが、本邦ではフリーカと呼ばれてスーパーフード扱いをされている。中東地域での伝統的な脱穀方法、およびそれによって脱穀された穀物を指す。デュラム小麦(パスタの原料となるらしい)を若いうちに収穫し、火にかけて脱穀するらしい。
因みにこの料理の緑色は香辛料等で付けられているわけではなく、穀物の色だ。
最後に、こちらはシシバラクと呼ばれる料理。中央アジアから中東まで、名前は違えど広く食される。例えばトルコでいうmantı(マントゥ)、ウイグルでいうچۆچۈرە(チュチュレ)に該当するらしい。
ヨーグルトベースのスパイシーなソースの中に、ワンタンのようなものが沈んでいる。温かい。
この日は友人の家で昼食をご馳走になり、そこから夕食でも(別集団と)シリア料理に行くことになってしまった。シリア料理尽くしの一日であった。